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Senka21好評連載:工藤恒夫「BtoB企業のビジネスデザイン戦略」

公開日 2005/05/05 12:33
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Senka21誌上にて工藤恒夫(平成国際大学名誉教授/東京マーケティングアカデミー学院長)氏が連載する「BtoB企業のビジネスデザイン戦略」が好評だ。5月号掲載の「第28回/ヒューレット・パッカードのビジネスデザイン戦略_」をお届けする。

計算尺を消滅させた卓上計算機

計測器メーカーであるヒューレット・パッカード(HP)にとって、コンピューター事業は従来の計器事業とは多くの点で全く異質であった。計測器の場合、開発の技術者数も投資金額も、コンピューターとは比較できないほど少なくてすんだ。また、コンピューターの場合には、ハードウェアの開発のほかに、CPUの開発と、ソフトウェアの設計が必要である。それに営業のやり方も計測器の場合はエンジニアが販売対象であったが、コンピューターは大企業のトップマネジメントがターゲットである。また、コンピューターは莫大な初期投資の回収に何年もかかるため、利益志向の強いヒューレットもパッカードもコンピューター事業には、あまり乗り気ではなかった。従業員の意志を尊重するという創業者の哲学・HPウェイがHPをコンピューター事業へ参入させることになったのだ。つまり、HPウェイはHPのビジネスデザイン戦略にまで、大きな影響を及ぼしていたことになる。

失敗を繰り返したメインフレームと違って、卓上計算機ではHP製品の評価は最初から高かった。1968年、HPは機械式計算機メーカーのスミス・コロナ・マーチャント社のエンジニアであるトム・オズボーンのモデルをベースに世界初のプログラム可能な科学用卓上計算機・9100を開発した。このモデルは市場で好評を博し、その後の革新的な設計の手本となった。当時はまだ大規模集積回路(LSI)のない時代であったため、プリント基盤を14層も重ねるなど、開発に最も苦労した製品でもあった。HPの卓上計算機で大ヒット商品となったのは1972年に発売されたHP35であった。このモデルが誕生したきっかけは、多くのHP製品と同様、ビル・ヒューレットのアイデアだ。時流がメインフレーム全盛期にヒューレットは小型化追求という逆転の発想で商品企画を行ったのだ。当時、大容量・省電力のICメモリーとICプロセッサーがようやく入手可能となっていた。そこで設計エンジニア達は、9100の機能を手のひらサイズの装置に凝縮し、シャツのポケットに入る計算機を開発したいというヒューレットの夢に挑戦したのである。この卓上計算機はキーが35個あったことからHP-35と命名された。

HPで初めての一般消費者向け商品となったHP-35は同社の新製品では記録的な短期間(7ヵ月)で開発された(平均18ヵ月)。市場調査会社がこの商品は投資回収ができないと結論を下したにもかかわらず、ヒューレットはコスト削減のため、CPUのほか部品の一部を外部から調達することによって、コストを下げ、価格を395ドルに決定した。HP-35は学生やエンジニアの間で、爆発的なヒット商品となった。かつて、エンジニアの友であった計算尺をHP-35は一夜にして消滅させたのである。その後の卓上計算機HP-65もヒットし、1986年、売上げと利益に占めるコンピューターの比率は同社の創業以来の中核事業である計測器を初めて上回った。2人の創業者があまり気がすすまなかったコンピューター事業への参入は皮肉にもHPのビジネスデザイン戦略の成功例として同社に定着することになる。HPのドル箱・プリンター事業

HP3000の立役者のディック・ハックボンはアイダホ州ボイシーで後に同社のドル箱商品となるプリンター事業に着手する。1980年、HPは最初のレーザー・プリンターを販売。この商品は日本のキヤノン製で、価格は6万ドルもした。その後、キヤノンからキヤノンのレーザー技術とHPの販売力を統合して、強力なプリンター事業を起こしたいという提案があり、ハックボンはキヤノン案を受け入れた。新製品は自社開発がモットーとなっているHPが開発を他社に委ね、販売だけを担当するということは、技術志向のきわめて強いHPにとってはタブーと言っても過言ではなかった。しかし、1981年にはIBMが初めて開発したPCが爆発的なヒット商品となっており、それに刺激されて「コンパック・コンピュータ」が翌82年に設立されたのを始めとして、200社近いIBMクローン・メーカーが雨後の竹の子のように生まれていた。

このような状勢下において、PC関連商品であるプリンターを低価格で販売すれば、間違いなく大きな市場を獲得できるとハックボンは睨んだのではないだろうか。HPが最初のレーザージェットを発売したのは1984年3月である。この商品は小型、高速で、印字が美しく価格(3495ドル)も手頃だったため、予定の倍も売れ、HPはまさに成長期に突入しようとしていたプリンター市場を制圧することに成功する。1987年、HPはレーザージェット_を発売した。当時は世界で多くの機種のレーザー・プリンターが発売されたが、印字品質の向上とグラフィックス機能を改良した同機は世界ナンバーワンモデルとなった。1989年、HPはレーザージェット_Pを発売した。この商品は性能、機能は_と同様であったが、価格を_より1000ドル以上下げた低価格訴求のモデルであった。このモデルは生産が間に合わないほどのヒット商品となった。

1990年の初めには、レーザージェット_を発売した。このモデルは_よりも大幅に改良された優れたグラフィックス機能が特徴であった。_の価格は2395ドルで、どの競合製品よりも安かった。HPのレーザージェットがレーザー・プリンター市場を支配していたために、HPのブランドがデスクトップ・レーザー・プリンターを代表するブランドになった。米国で、クリネックス、ゼロックス、バンドエイドなどの一企業の強力ブランドが製品分野全体を象徴するブランドに変化したように。HPの3つのビジネス・モデル

HPのインクジェット・プリンター事業は1978年、パロアルトの研究所での発見からスタートした。当時、工業用の大規模なインクジェット式マーキング機器はすでに存在していたが、それは工業用に大きな文字を粗く印刷するだけのものに過ぎなかった。インクジェット方式は省電力で、しかも製造コストも低いという点がメリットであった。そこで、HPの技術陣はマーキング技術の小型化に挑戦した。1980年に最高のサーマル・インクジェット製品プロジェクトを結成、84年にシンクジェットというサーマル・インクジェット・プリンターを発売。当時もっとも低価格であったシリアル・ドット・マトリクス・インパクト・プリンターに比べて、印字品質、静音レベル、省電力、高画質等あらゆる面で優れていた。しかし、シンクジェットは予想したようには売れなかった。その理由はこの製品が価格、性能・機能面でユーザーニーズに適っていなかったからである。
市場調査の結果、1000ドル以下の価格で、レーザー・プリンターに近い品質のインクジェット・プリンターが望まれていることがわかった。そこで、新製品開発は、この時は最初から研究開発、製造、営業部門の混成チームで行った。技術志向の強いHPが初めて市場発想型の商品開発を実践したのである。こうして顧客が満足できるデスクジェットが完成したが、ドット・マトリクスの価格が当時350〜500ドルになっていたため、995ドルという価格はパーソナル・プリンターとしては依然として高すぎた。

HPのデスクジェット・プリンターは減価償却が大きいため、ドット・マトリクスに対抗できるほどの低価格戦略を採用することは無謀であった。しかし、コストの急減によって、最低価格機種が1993年には365ドルにまで下がった。1980年代後半以降、インクジェット・プリンター市場が本格的な成長を迎える中で、HPはプリンターのリーディング・カンパニーとして、売上げと利益の両面で大きな成長を遂げた。プリンター市場を支配しているHPには、消耗品であるインク・カートリッジのリピートという同社の過去のビジネス・モデルにはなかった最も利益を生むビジネス・モデルが加わったのだ。それは、ジレットがひげ剃り器でなく、替刃が利益の源泉となっているのと同様のビジネス・モデルである。計測器メーカーとして出発したHPは、計測器事業とコンピューター事業、プリンター事業の3つから成る有力IT企業へと成長したのである。

(Senka21編集部)

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